2004年 松下政経塾特別例会

 
◆山本 泰広(岡山政経塾 三期生)

《「国から個、男社会から女社会、論理から感性へのエクソダス」松下政経塾合宿》




1.「国から個へのエクソダス」

 「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望がない」。
― 村上龍「希望の国のエクソダス」より ―

 松下政経塾の25周年シンポジウムのパネリストの意見を聞きながら、小説の一節が思い出された。主人公である中学生のポンちゃんが、「生きていくために必要なものが全て揃っていて希望だけがないという国で、希望しかなかった頃とほとんど変わらない教育を受けているという事実をどう考えればいいのだろうか、よほどの馬鹿でない限りそういうことを考えない人間はいない。…いずれこの国の教育も変わっていくのでしょうが、過渡期に生まれた僕たちはそれを悠長に待つことが出来ない…。」という現在のわが国が抱える問題の本質を見事に表現している。もちろん、問題は教育分野だけに止まらず、あらゆる分野で顕現化している。松井社長の言葉を借りれば、現在は情報革命によるパラダイム転換が社会構造の本質を変貌させている世界である。だからこそ、「この国は21世紀にどうあるべきか」、「人間はどうすれば幸せになれるのか」などの根本的な「哲学」が必要なのであるが、政治家の方々の未来を描けない発言には失望させられたというのが僕の本音であった(マスコミ等を前にして本音を語れないという事情は十分理解できるが…)。

 「危機感だけが物事を変える力を生む」ということは本質であろうと思う。しかしながら、安全な場所から危機感だけを煽り、希望を明示できないような政治家はただの野次馬と同じではないか。少なくとも僕らは毎日小さい生活圏ながら、迷いや押し寄せるストレスなどマイナスの力を家族や友人、彼女との楽しい時間や自己実現、夢、希望などプラスの力に変えて生きている。また、松下政経塾で接した塾員、塾生達は、自分の問題として社会的弱者の方々の不安や失望をプラスの力に変えることが出来る優秀な方々であると感じた。本来「エリート」という人間は、社会で起こっている問題を自分の問題として捉え、解決することが出来る人間であって、学歴や職業など関係なく、一緒にいるだけで希望を託してしまう人間である。僕は睡眠が大好きで情けないが、「眠りは弱者の特権」という言葉が好きである。これまで接した先輩やエリートと呼ばれる方々は、眠らない程努力をされていたし、恐らく眠れないほど悩んでいたのだと思う。やはり、残念なのはわが国の指導層である方々の危機感、スピード感の欠如であった。

 こうした中一つの疑問が湧いてきた。それは、個人的に接した国会議員や官僚の方々からは、日本を良くしたいという熱い思いが伝わってくるにも関わらず、なぜ「公」の場では正しいことが言えなくなり、実行できなくなるのだろうか。もしかしたら、戦後50年間で肥大化された官僚組織の病理に加え、価値観の多様化や情報革命によるパラダイム転換が、「国」という単位では、もはや何も解決できない社会へ変えてしまったのではないか。松下政経塾の塾生から講義を受けたときも、一種の違和感を覚えた。イギリスで民間雑誌がホームレスの生活を救済しているという話、私立学校が不登校の生徒を更生させているという話であったが、どうして「民間」で成功しているものを、「国」で広く実施する必要があるのだろうか(根本システムを再構築するなら話しは分かる)。図体だけが大きく感度が悪い、瞬発力もない「国」では、危機感、スピード感を満たすことが不可能である。ゆえに「民間」単位で、多様化され変貌を続ける価値観に対応するため、機動力を活かし行動しているのではないか。さらにいえば、現在の諸問題の根底には財政難がある。財政が年を追うごとに厳しくなる中、必要不可欠な行政サービス(価値観が多様化した社会では、この定義もまた困難である)以外は、例えこれまで必要であると思われていたものでも削除する方向に収斂せざるを得ない。つまり、感度の悪さ、スピード感の欠如、財政難という3つの問題から、「国」単位では国防等を除く諸問題は解決し得ない状況なのである。政治家や官僚など時代の流れの本質がみえない方々から聞かれるのは、「国」「国」「国」が何とかせねば、という祈りにも似た悲しい呻きばかりである。

 もっとも、僕が目指す哲学は「俺」も悲しい、「俺」を手本にしろ、「俺」がお前らを守ってやる、といった男気ある美少年であることはいうまでもないが、地方の時代、個の時代が足元到来している。すなわち、我々岡山政経塾塾生の一人一人が地方から新しいものを創造することを期待されているのである。



2.「男社会から女社会へのエクソダス」

 松下政経塾の特別プログラムが終わってから、小崎さん、堀内さん、本郷さんと4人で行動を共にした。僕が女好きということもあるが、ただ計画するのが面倒なので、幹事である本郷さんに「火の中水の中どこまでもついて行きまっせー」とメールをしたことがきっかけだった。以下2つのエピソードは、男性社会が生んだ閉塞感が、女性の持つ価値観によって打破される時代の幕開けを実感するのに十分な経験であった…。
 
@ 3人の美女プラス野獣は、北鎌倉へランチ目指し重い荷物を抱え電車に揺られた。人を掻き分け薄汚れた電車から下りると本郷さんがふと呟いた、「あれ可愛い」。恐る恐るみると、可愛らしい深緑の名も知らない植物が階段の隅から立派に存在を主張している。「紅葉すれば綺麗だろうねー」と小雨が残る中、3人は荷物を揺らしはしゃいでいる。3人の後ろで野獣は、ありふれた光景をいとほしく見ていた。
― 恥ずかしながら、一人ではあの植物をみつけられなかっただろうなーと悟った(見つける必要性はない、でも素敵な気持ちになった)。僕は必死にランチのこと(効率的に目的を達成すること)ばかり考えていたということもあるが、女性はこんな些細なことで喜びを共有するのだなーと関心させられたエピソード。

A その後、待望のランチを頂くことになったのだが、堀内さんが調査・予約してくれた店は趣きある北鎌倉に相応しい名店であり、大変おいしく、3人のたわいない会話を堪能しながら、久しぶりに心からうまいと言える日本料理屋に巡り合えた。
― その頃男性陣は、横浜中華街でランチを食べ横浜名物?である映画を見たらしいが、僕も含め男というのは、やはり行き当たりばったりで、計画性がないなーと思った。どちらが良いというわけではないが、人生に新たな付加価値を生み出せるのは女性なのかなーと思ったエピソード。



3.「論理から感性へのエクソダス」

 ランチを食べた後、品川に戻り「原美術館」で奈良美智展を4人でみた。僕は初めてみる作品であったにもかかわらず、直ぐにある女の子に釘付けとなった。それは「深い深いみずたまり」に浸る小さな女の子で、包帯を頭に巻きながら、水溜りに腰まで浸かり、目は反抗するでもなく、睨むでもなく、人間の本質を見透かすような、矛盾を抱えるような、純粋な目であった。その女の子からは、これまでいくらわが国の問題や未来について議論しても見えなかった本質が、「あー、こういうことだったんだ」と見えた気がした…。



4.結びに変えて

 「戦略のミスは戦術では取り戻せない」と何かの本で目にした。ここでいう戦略とは国から地方、個へ転換することであり、その戦術として男性から女性中心の世界にすること、論理中心から感性中心に物事をすすめることである。いくら優れた政策でも哲学が間違っていれば成功しない…。
 最後に、今回の例会は僕の行動哲学が確立できそうな体験であった。さらに仲間にも恵まれ楽しい時間であった。本当に皆様方に感謝したいと思う。